第一章
  特徴1 大脳による意と気の運動

拳譜による基準:

 (1)“心を以って気を巡らせ、落ち着かせることにより收斂入骨(骨の中に収める)ことができる”

 (2)“気によって身体を動かし、全てをスムーズに無理なく運用させることにより、便利從心(心が思うままの結果を手に入れる)が可能となる”

 (3)“心が命令を発し、気はそれを伝える旗である”“気を養い続け、気を損なうようなことをしてはならない”
 (4)全身の意識は気ではなく神に注視すべきである。意識を気におくと滞る。

 以上に列挙した4つの基準から分かるのは、太極拳は意を用いて意を鍛錬する拳であり、気を巡らせて気を鍛錬する拳であるということである。しかし練習時には、“心を以って気を巡らせる“:つまり心が命令を下し、気はその命令に従い伝わる”旗信号“、一挙一動が用意不要力、つまりまず意が動いてその後に形が動くことにより、ようやく”意到気到(意が至れば気も至る)“し、気到勁到(気が至れば勁も至る)により動作が落ち着き、長期間の練習により、気を収め骨に入り込ませることができ、”行気(気を巡らせる)“の最も深い功夫を得ることが可能となる。

 つまり、太極拳は一種の意と気の運動ということである。”以心行気(心を以って気を巡らせる)“、”以気運身(気を以って体を動かす)“と用意不要拙力(意を用い拙力を使わない)のは、太極拳の最初の特徴である。

内気と用意

 上述したように、気は意の指令を受ける。この気は一般的に言われているような肺呼吸の空気ではなく、一種の“内気”である。この種の気はわが国の医学理論の中では“元気”、“正気”等と呼ばれる経絡の中を行きかう気や、“先天の気”と呼ばれる母体より受け継がれたと考えられているものがあり、鍼灸と気功治療の中でも今日に至るまでこのような言われ方がされてきた。

 武術家達はこれらの気のことを“中気”、“内気”、“内勁”等と呼び、この気の発生と掌握ができて初めて、功夫が“家に到着した”とみなされる。

 何はともあれ、古来よりわが国の医学理論あるいは武術界、宗教界にはこの種の気が存在すると考えられており、各種の実践経験もこの存在を証明している。しかし近代科学はいまだに、この気が実質的に何であるかを解明しておらず、我が国の医学経絡学説を研究している国内外の専門家の見解も一致していない為、どの説を信じれば良いのかは非常に難しい。

 ある人は気とは神経のことであると云い、ある人は生体電気である、またある人は体内の特殊な分泌物であると主張しており、まだもう少し研究を進める必要がある。しかし人体の生理現象は全体的なものであり、意が動いたのに神経や生体電気等が動かないということは考えらない。

 そこで、我々は拳論の中で気に関しての記述を解き明かす際には、暫時それを神経、生体電気、血液中の酸素等より成る総合的なものとして捉え、調査研究が待たれる人体の機能の一つである、と仮定する。これはまず先人達の理論を継承し、我々がさらにそれを深く掘り下げる為である。

 太極拳の練習は、まるで”意識の体操“を行っているように、最初から終わりまで意を用いる。動作は意の外部表現でしかない。このような”意識の体操“の内部に隠されているのは内気の活動の過程であり、外部に表出しているのはその姿形と外気がうねる様子である。よって内気は内から外へ発することができ、外気は外より内へ収めることができる。
 


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